自殺について

きょうは庄司薫『僕の大好きな青髭』から47年であるし、作中と同じく草舟は海に沈んだので、ウキウキと新宿でも迂回して帰ろう!としていたのだが、仕事でとんでもないミスをしたのでひとりで猛省中。

 

猛省のお供に、ひとりのもの思いを助けてくれそうな本たちを図書館で借りてきました。

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「現代はショーペンハウアーの時代」というのは、『僕の大好きな青髭』のメインテーマであるのだけれど、いまだによく意味がわからず。。。

 

ショーペンハウアー「自殺について」には「自発的にこの世を去った知人、友人、身内を持たない者があるだろうか? 」ということばがある。

 

ーーはい、わたしにも何人か顔が思い浮かぶ。

 

上の引用は「そしてそれらの人たちを犯罪者として、嫌悪感と共に思い出すだろうか? 否、重ねて否と言おう!」(php、2009年)と続く。

 

ーー確かに犯罪者だなんて思わない。むしろ何年も会っていない友人と同じように、気がつくと(元気かな?)なんて考えてしまったりするし、それが極めて普通のこと。

 

論考自体は「答えを聞き取らねばならない意識のアイデンティティを破棄してしまう」と結ばれているのだけれど、これを読んで思い出したことがまたひとつ。

 

上でわたしが顔を思い浮かべたひとりは、何年も経ってからその死を知り、それを聞いてからも(かわいそう)だとか(きのどくだ)なんては思わず、(やつはそれを選んだのか)と、ある意味で(納得)の感情が溢れてしまったので、その知らせをくれたひとは、わたしの表情にギョッとしたかもしれない。

 

口では「そうですか……」と言いながらも、わたしには納得できないことがあった。というのも、その時期、わたしは(やつ)から、とるに足らないメールを受け取っていたからである。

 

「とるに足らない」とはあまりにひどい表現だと思うかもしれないが、つまり「メールアドレスの変更」だったので、わかってもらえると思う。

 

「アドレスを変えました」というそれだけのことだったので、返事すらしなかった。知らせを受けてからメールフォルダを漁ってみると、その日の日付がアドレスとなっていた。

 

 

不謹慎ながらも、それが渾身のギャグだったのか、そもそもなぜ何年も会っていなかったわたしに(だけ)アドレスを知らせてくれてのか、グダグダに酔っ払いながら聞いてみたい気もするのだが、あいにく新しい「アドレス」への正しい通信手段はない。

 

 

ひとつだけ(やつ)に言いたいのは、ドイツ語では冠詞がコロコロと変化するし、ギリシャ語に至っては固有名詞さえ変化するということ。どういう意味かは、(やつ)にさえ伝わればいいので、ここでは説明しません。

空気の感覚

久々に院生時代の先輩に呼び出され、思い出話や近況などを取り留めなく話す。

 

帰り際、駅の近くの路面店を覗いたりしてウロウロしていたのだけれど、とんでもないことに気がついてしまった。

 

というのもこの感覚、隣にいる、しかし存在を感じさせない空気みたいな「感覚」が、前にもあったことが、急に追体験のように蘇ってきてしまったのだ。

 

あまりに自然にリプレイが始まったので、しばらくそれに気がつかず、ちょっとしてから互いにギョッとして距離を置いたのである。

 

知り合ったころ、先輩はさまざまな事情で長い休学から明けたばかりだった。別の先輩たちと馬鹿な話を繰り広げた飲み会の帰り道、赤信号になって取り残されてしまった10歳下のわたしの前で、初対面の先輩は涙を流していた。あとになってから知った事情は、とんでもなく耐え難いものであったので、いずれにしよ流した涙だとは思うけれども、そんな風にして芽生えた友情関係は、やはりどこか歪のまま、連絡したり長期にわたりなんの連絡もしなかったりして、今日にいたる。

 

先輩はとっても好青年であるけれども、この他人のブログに勝手にイケメンの話を更新し続けるわたしとはいえ、これまでも、これからも、他人のような知人関係を続けていくのだろう。

 

それが見え透いているので、一瞬でも、よくふたりで大学の前の通りを花を見上げたり馬鹿話をしながら歩いたあの感覚が蘇ってきたのは、非常に恐ろしいことであった。

 

 

イケメンの涙

もう5年も前のはなしだけれど、詩人として有名になった女性の先輩とたまたま出くわしたことがありました。そのまま食事をして、新宿から中央線下りの最終電車に駆け込んだものの、車内は満員で、ニンフの雰囲気も併せ持つ先輩が被ったフェルトの帽子が、わたしの目線よりもわずかに低いところにあり、先輩の視界はしかし周りの人によって完全に阻まれていて、ときどき話しながらまあるいつばの一部分を上げてこちらの方を見ていた。

ぼぉーっと先輩の帽子の方を眺めていると、緑のふちになにやら水玉が。なんだろう?と思って目を上にやると、先輩の後ろに立った長身の男性が大粒の涙をボロボロこぼしていて、そのたびに先輩の帽子の上へ水滴として垂れ落ちては水玉模様を広げているのでした。あんなにボロボロ涙をこぼすイケメンはこの時点で初めて見た。

とはいえ、接着している状態で先輩に「うしろのひとが泣いていて帽子が濡れていますよ」とデカイ声でも小さい声でも言うこともできず、こちらは平静を装いながらウズウズしていると、急にその涙の男性が

「すみません!」(叫)

どうやら高い位置から、電車の中で気分が悪くなり倒れてしまった女性の様子が見えたらしく、次に停車した中野駅(そうです、涙に気がついたのは新宿から中野までのわずかの間でした。)で、手分けして駅員さんを呼んだり、その女性をおろしたり、なんとか救助をおこなった。

再び動き始めた電車は「よかったですね」という不思議な一体感に包まれ、イケメンの泪もすでに乾いていた。そのうちわたしの最寄り駅でイケメンは一足先に階段を駆け下り、電車です人目をはばからずに泣いたその理由は、当然のことながら、わからないままである。でも困っている人を大きな声を出して助けることができるあのイケメンは、きっと幸せになってほしい。

そして上に「この時点で」と書いたように、この直後にまたイケメンの涙を見ることになるのですが、それはまた別の機会に。。。



くるみのはなし

大学院生の頃、決まった指導教官がいたのだが、学部時代からのよしみで無理やり入れてもらったようなもので研究テーマも全く関係していなかったので、最終的にはその先生を含めて3人の先生に論文を見てもらっていた。

3人のゼミがすべて同日に固まっていたので、オヤツやご飯のタイミングを見据えて、A→B→C(本来の指導教官)→またA、と移動したのも懐かしい。

A先生は妖しい雰囲気を備えた女性の先生で、わたしは学部一年生のころからずーーっとお世話になっていた。絶望的な成績のわたしの留学を(おそらく「定員割れするよりいいから」と)後押ししてくださったのもA先生であり、(わたしゃビンボーなのにこんなに舌が肥えていいのだろうか)とこちらが不安になるほど「よいもの」をたくさん食べ・飲ませてくださった方である。

ということで、3人の中でも特に、いちばん年長のA先生に約10年間にわたりベッタリお世話になった、のにもかかわらず恩は一向に返せていない。

恩返しを意識したとき、必ずあたまに「くるみ」が浮かぶ。A先生にも直接「いつかくるみのお礼を」と何度か言ったけれど(私、クルミなんかあげたっけ?)とか(そんな覚えないのにキモっ)とか思われたに違いない。

くるみとは、比喩である。

19歳も残りわずかになった頃、「カラマーゾフを読まずに成人してしまう!」と焦りに焦って、当時出たばかりの新訳を1冊ずつ読み進めていった。(ちなみに罪と罰はやっと去年になって読みました。)

あんなに夢中になったのに、覚えているのはふたつのエピソードだけ。ゾシマ長老が「夜中にやるべきことが思い浮かんだときは、起き上がってやりなさい」と言ったことと、「くるみのはなし」である。

最終巻、父殺しの罪に問われたドミートリーの裁判中、幼い頃の隣人が彼をかばった発言をする。幼い頃のドミートリーは育児放棄されていて、他の子が買ってもらえるようなクルミの一袋もなく、哀れに思った隣人が買って渡す。それから20年近く経って、突然隣人の家に、たくさんのご馳走をもったドミートリーが現れ、「あの頃、自分にクルミを買ってくれたのはあなただけだった」と涙をこぼす。そんなドミートリーが殺人を犯すはずなんかないーー。

わたしはひとに受けた恩をすぐ忘れるので、この時間スパンの長さにびっくりしてしまい、受け取った恩=くるみをひとつ一つ忘れずにいよう、そしていつか、何十年経ってもふとした機会にお礼ができるようになろう、と心に誓ったのである。

なるべく早く「くるみ」の恩返しをしたいと思いつつも、年収300万円未満の都内一人暮らし世帯としては、モノやお金として返すことができず悶々としていましたが、A先生と近々お会いできることができそうで、何を返そうかと考えているところです。

公共と営利

先週、営業に行ったものの担当者に会えず、休憩明けを待って、30分ほどお店の中をウロウロしてしまいました(書店営業はノーアポのことが慣習的に多い。)

(私みたいな挙動不審人物が長時間ウロウロして、お客さんにギョッとされたのではないか…)と申し訳なく思われたので、担当者さんにあとで謝ったところ「気にすることないですよ」「本屋は目的がなくてふらっと立ち寄る場所ですから」とのお答え。

感動して、他の書店員さん(お花のひと)にも言いふらしたりしたのですが、たしかに本屋さんは公共性がものすごく高い一方で、経営に苦心されているところは、ものすごく多いと思います。(きょうも担当先が一軒閉店決定……)

薄利多売ではないけれど、本屋さんを空気として必要にしている人たちが、ちょっとした買い物を定期的にしてくれれば「持つ」のだろうけれど、自分を含めて「ただ乗り」が主流だし、行政が責任を持ってくれるわけではないし。。。

なやましい
そして
むずかしい。


さて。
ないと困るけど、死ぬわけじゃないもの、があります。

わたしの場合、東北出身の田舎者らしく自然に頰が赤かったので、チークなんかは最近使い始めたのだけれども、一度使い始めると、チークなしでは化粧が完成しないように感じる。職場の机に入れているドリップコーヒーや、手帳に入れている数枚の切手など。死ぬわけじゃないけど、ないと「心許ない」。

書店さんで月に1冊、本を買うという行為も習慣にしてしまえば全体の利益にもつながるのでしょうが、なかなか難しいですよね。うーん、どうすればよいのでしょうか。

全く話が変わりますが、去年のいま頃、心取り乱すことが続いたころに、友人が「ヨガ」を勧めてくれました。「スパリチュアルみたいだけど、やると精神的に落ち着くの」。
それからユーチューブを片目に15分ほどの簡単なヨガを家で(バスタオルを敷いて)ときどき行なうようになりましたが、一度習慣になってしまうと、「あっ、きょうは寝る前にヨガやらなきゃ」と自然に思考回路と予定に組み込まれるようになり、そのたびに無心でポーズをとっています。いまはヨガ期を超えて、仕事前と休日のジョギングにハマっています。話した全員に「膝壊すよ!」と心配されている……。

膝壊したら、ヨガやります。ジュノ・ディアス『そうしてお前は、彼女にフラれる』よろしく。ジュノ様のトークショーに行ったある冬の日、ジュノ様に何か話しかけられましたが全く聞き取れず。ユーアーソー◎◎。◎◎に入る文字を答えなさい。わたしは、ちなみにカワイイだと思い込むようにしています。

うれしかった話

取引先の会社でゴタゴタがあり、そこで働く知人に声をかけて近況をお聞きしようとしたのですが、いざ安居酒屋に入ると、仕事の話なんか10秒で終わり、ふたりで「非リア充自慢」交戦を繰り広げて、純粋にたのしかった。

知人に対しては、仕事上でももちろん尊敬していて、知人と表現するのが「申し訳ございませっぇぇえぇぇえん!!」と土下座しなきゃいいけないと感じるほどであるし、だからといってわたしは直接の取引担当でもないので、ほんとうに個人的な「心配」から生じた突発的な会である。知人はイケメンだ!オシャレだ!とわたしは思うのだけれど、社内で積極的な同意はいまだ得られない。

 

あ、いまから結論を言うと、イケメンとサシ飲みできてうれしかった、という話です。

 

いかに自分に友達がおらず、休日も家にひきこもっているのかという互いのアピールタイムが過ぎたころ、知人はぼそっと「このあいだの休日も家から15分しか出なくて……」とつぶやいたので、「コンビニとか?」(わたしの場合は休日に家を出る機動力は空腹でしか生まれない)とお聞きしたところ、返ってきた答えに静かに驚愕しましたわ!

 

「お花を買いに行っていました。」

 

この答えに(あー、全然そんな下心なかったけど、この人と結婚してもいいかも!!!)とノリノリになるぐらいテンションがあがりました。きょうその話をした友達全員が「それはヤバイ!!!!!!」と大興奮したので、モテたいあなたも、休日の予定を聞かれたら、「特に何もしていないけれど、ちょっと外出して花を買ったかな」というのがパーフェクトな答えです。おめでとうございます!!!

 

そんなこんなで数日間はしゃいでいましたが、(仕事上の付き合いだし、勝手に妄想していて「ヤバい」んじゃないか……)と不安になってきたので、明日から落ち着こうと思います。落ち着く!!!(言い聞かせ)

Sの話。

25歳ぐらいのころに、人生の折り返し地点を感じた瞬間があります。

というのも、新たに知り合う人にたいして「あっ、○○さんに似ている」と<既知の人>がすぐに思い浮かぶようになったのがそのころだったからです。そのころからわたしはめったにびっくりしなくなり、迫りくる電車が見えるホームで隣のおじさんが線路につっこんだときも非常ボタンをすぐに押し、友達が目の前で車に牽かれても冷静でした。

あっ、それはもっと前の話だった。

とはいえ、そんな「心の新鮮さ」を失いつつある<おばちゃん>たるわたしにも、忘れられないひとびとの顔はあるわけで、ときどき心のアルバムをめくってはニヤニヤしています。

大学を卒業しようと思っていたころ、景気の悪さと、要領・器量の欠如がたたり、就職を見つけられず、大学近くのファーストフード店で涙を流したり、そこで合流した男友達に「おれ、彼女の下着のにおいをかぐのが好きなんだ」と唐突にカミングアウトされたりしていました。*「断じて下の下着ではない」だそうです。

生来の目立ちたがり気質から、12歳ぐらいのころから「留学したい!」と思っていました。大学2年生ぐらいのころに相談に回ったこともあるのですが、あまり真剣になれず、ダラダラと日々を浪費して、前段落のナイ内定状態に至ります。もう、就職のために留年も見据えなければいけない。どうしよー!!と悩んでいたころに「あっ、交換留学の奨学金があるじゃん!」とフッと思いつき、定員割れのヨーロッパの某大学に120万をもらって乗り込んだ、のがいまから6年前です。

その国には行ったことも、興味すらなく、自分が滞在する街と首都が隣り合っていると思っていたほどでした。実際にはのちに、片道6時間の距離を知らない人の車に乗せてもらって往復するようになります。

と、言葉もできず、前提知識もない国へ乗り込んで、編入手続の際に「じゃあ、この寮だから」と渡された鍵を持って学生寮へ。百年前の写真にもバッチリ載っている木組みの複雑なつくりをした3階建てで、もとは娼館だったとか。学生寮は、飲み屋街の端に位置していたので、大学よりも居酒屋で言葉を学んだと言えると思います。

 

話はちょっと迂回しましたが、学生寮の隣には、さらにボロいちいさな家。そこに住む(住んでいた)Sのことを、わたしは一番大事な思い出として、よく思い出しています。

 

……ここからは以前Facebookに書いて、非公開にしたものを貼り付けます。。友人名は仮名にしますね。ここまで伏せていた地名はバレバレですが、知人・大学関係各位、おめこぼしください。

 

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 ドイツでいちばんおもしろかったことを聞かれると、「エリート学生のソーシャルクラブに潜入したこと」と答えるようにしているのだが、それは表向きのシツラエでしかなく、ほんとうにおもしろかったことは別にある。
 わたしが暮らした元娼館の学生寮の角部屋には、二つの大きな窓があり、ひとつは観音開きで通りに面しており、向かいの家の豪勢な2階のホールを見下ろせるようになっていた。もうひとつは縦に大きく、しかし隣家の煤けた、めちゃくちゃな配列の瓦を眼下に覗むだけだった。
 あるとき、定時を打つ鐘の音にまじって、ピアノの音がかすかに聞こえることに気が付いた。
「あの豪勢なホールには
「おいしい食事が並ぶだけじゃなくて
「ピアノだってあるのだな――」
 子どもの姿が見えることもあった。貧しい留学生活とは反対の理想郷である。
 しかし、あるとき、ふとしたきっかけで意外な事実が判明した。
 話に行き着くまでに、とんでもなく時間をさかのぼらねばならないが、しばし辛抱を。
 わたしの「クナイペ・ドイチュ(居酒屋独語)」を養った毎晩のアクティビティと変わらず、汚い革ジャンでルームメイトとふらふら家路についたある日。学生寮の玄関近くの扉が大きく開け放たれており、中からは大音量のクラシック音楽が流れていた。
 前述のとおり元娼館の学生寮は、複雑な構造で、通りに面した玄関の上に縦に1棟、そして中庭を囲むように2棟が向かい合っており、わたしが住んでいたのはその2棟のあいだを超えた、一番奥の棟だった。棟はそれぞれが独立していたので(木枠を無理やり乗り越えれば繋がっていたと言い張ることもできるだろうけれど)、別の棟に住むひとのことは何も知らなかったのである。
 当時のわたしはいま以上に頭がおかしかったので、開け放たれていた窓から「こんにちはー。何してるのー?」と、ためらわずに顔を突っ込んだ。これが大事な友人、イスラエル人(ユダヤ教信者)の「A」との出会いである。彼の部屋には古い楽譜や胸像がひしめき、備え付けではないビロードの赤いカーテンがかけられていた。

 

 Aがその夜一緒にいたイスラエル人の友人Bは、医学部志望でドイツ語試験を何度も受け直していたが、それからしばらくして、大麻でハイになっているところを自転車で河川敷から転落し、全身を、特に手指を複雑骨折し、二度とメスを握れない身体となって故郷に帰国した。
 Aも穏やかな目をした長身の優しい青年であったものの、頭がイカれていたのは確かである。同じ大学の学生寮に住んでいたものの、とっくに大学からは除籍になっていた。いまは隣の市の音楽大学に通っているのだという。
 その夜からわたしたちはとんでもなく仲良くなって毎夜飲みに、そして目的もなく深夜に古都を徘徊するようになったが(他人の家の地下室に忍び込んだり)、それから数か月(!)ついに彼は学生寮を追い出される羽目になった。
 引っ越しのデッドラインまで数日。スーパーから「持ってきた」カートに大量の楽譜を入れて、石畳をゴロゴロと引っ張っていく。ガラガラガラガラ。三階の部屋まで響き渡る音は、しかし意外に近くで止まった。聞くところによれば、わが部屋の縦長の窓から見下ろす、あの小さな汚い家にひと部屋を借りることにしたそうである。
 そもそもわたしたちの学生寮にはピアノなんてものはなく、Aはかの「●ックス・ウェーバー・ハウス」の鍵を借り、語学学校の授業がない深夜にピアノの練習をしていた。(よく幽霊を見る、いつか連れて行く、と言っていたが行けずじまいである。)
 「こんど部屋を借りる家にはピアノがあるんだ」
 はい、そうです。お待たせしました! ときおり部屋に流れてくるピアノの旋律は、あの通りの向かいの豪華なホールからではなく、すぐ隣の、小汚い家(失敬…)から流れてきていたのでした。
 その家主こそS、なのですが、今日は眠いのでここまで…(3月7日)

 

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Sは60歳をとうに超しているような見た目で、スティーブ・クーガンに似ていた。猫背の上にぼさぼさの白い髪を垂らし、いつも白い下着のシャツとブリーフのようなものでウロウロしていた。Sの家は、かわいらしい三角屋根のちいさな階段を数段上がると、二階建ての家になっており、そこから、なぜか照明が青いトイレ小屋がある中庭を距てたところに、小さな物置部屋があって、Aはその高さがあまりない部屋にくらしていた。手前の家の一階にはピアノが置いてあって、その奥の壁には描きかけの青空の絵があった。その端々は、黒く煤けている。Aからの伝聞では、「Sは、火事になったトラウマで、精神的な障がいを負っている」そうであったが、実のところはピアノ教師であったらしい。彼の教え子をわたしは一人も知らない。

火事の影響でSの家には暖房やお湯の類が一切なく、台所の水道から中庭へ伸ばしたホースを使い、その冷たい水をSは毎朝5時頃から「シャワー」として使っていた。Aはその形式を真似しようと試みたようだったけれども、すぐに耐えられなくなり、前出のように、以前侵入したことのある他人の家(Aの元職場)の地下室にあるシャワー室へ、深夜になると忍び込むようになった、とさ◎

Sはもちまえの神経質さでドイツ語の発音を直してくれたし、そもそもずっと気になっていた音の主であるのだから、自然にわたしもAの用事を抜きにSの家を訪ねるようになった。時にSはお茶をすすめてくれたけれど、それ以上に「ナイジェリア人の友達がくれる」という純粋大麻をすすめてくれることが多くなった。わたしは親がオカタイ職業なので、いくら異国の地と言えども、断っていました。(ほんとだよ!)

Sの家の二階はとても狭く、木の床はベッドと楽譜と本でほとんどが占められていました。いちど、Sが具合を崩したときか何かに階段を上がったけれど、暗い部屋の中で美術館のインスタレーションのように置かれたテレビが、繰り返し同じポルノチャンネルの宣伝を流していて、その混沌さに感動さえ覚えたものです。そんな性の露出と隣り合わせになったところで、よくわからないオッサンとふたりでいても、わたしたちにはもちろん何かそういう感情をかよわせたことは一切なく、あくまで単体の人間として、会ったり、文学の話をしたり、最近見た映画の話などをして、Sはたまにピアノを弾いてくれたりしました。2階の部屋には天窓があり、そこがわれわれの暮らす学生寮の2階部分ほどにあり、私の暮らす3階の窓から身を乗り出すと、明かりが見えることもありました。

こんな穏やかな交流を続けていたSも、大麻でワケがわからなくなると、ほんとうにだめでした。

ある夜、変な叫び声が聞こえ、通り沿いの窓から身を乗り出すと、AがSの家の前で何かを叫んでいます。すぐに下りて話を聞くと「ラリった」SがAを締め出してしまったが、「コンロでお湯をわかしっぱなしなんだ!」だそうで、さらなる火事の危険が迫っていました。

困ったAと話しているうちに、わたしの窓から様子が見られるのでは、という話になりました。ルームメイトを巻き込んでみんなで下を覗き見ていると、Aは「天窓が開いているから、ここから飛び降りるから!」。

いくら緯度が高いと言えど、深夜なので真っ暗です。Aが窓枠にまたがって、3階の床の高さにあるでっぱりに足をかけてからは、ルームメイトが懐中電灯を向け、2メートルほど下のS家の屋根を照らしていました。

がしゃっ。

瓦の崩れる音がして、無事に着地したAは、台所へ向かい、水のなくなったヤカンの火を止めることができました。

こんなことが重なって、AとSはよく喧嘩をしていたけれど、何年かしてAの在留資格が問題になったとき、自分の養子にできないか真剣に検討してくれたのもSで、結局ドイツ人の女の子と結婚したAのお祝いで「ベストマン」の位置にいたのも、その日はちゃんと髪を整えたSでもありました。

たまたまわたしがヨーロッパを旅行していたときに開かれたAの結婚式自体は、宗教的な理由から市役所で行われ、職員が愛についての詩を朗読してくれる簡素なものであったけれど、とても気持ちがよいもので、何よりも驚いたのは、そのあとの宴が、わたしたちがよく侵入したあの、他家の地下室で開かれたことでありました。そのときはちゃんと使用許可をとったそうです。

 

Sは、わたしの帰国後に一層麻薬への依存を深め、いまや、生きているのかどうなのかもわかりません。でも、Sとの奇妙な関係や、あの「突き抜けた」空間やエピソードの数々は、均一化されるわたしの世界の中で、いまでも大事な位置を占めています。

 

留学を終え、最後にSの家に寄ったとき、わたしは床に腰掛けて、Sはショパンか何かをゆっくり弾いてくれたけれども、引っ越しの準備でとても疲れていて、わたしは気が付くと眠ってしまっていた。

目ざめにわたしが発した一言を、Sはずっと覚えていてくれたけれども、わたしはすっかり忘れてしまった。わたしは何と発したんだろうか。Sは「ピアノを弾けないピアニスト、ピアノを教えないピアノ教師なんて存在しているんだろうか」と言ったのだけれど……。