Sの話。

25歳ぐらいのころに、人生の折り返し地点を感じた瞬間があります。

というのも、新たに知り合う人にたいして「あっ、○○さんに似ている」と<既知の人>がすぐに思い浮かぶようになったのがそのころだったからです。そのころからわたしはめったにびっくりしなくなり、迫りくる電車が見えるホームで隣のおじさんが線路につっこんだときも非常ボタンをすぐに押し、友達が目の前で車に牽かれても冷静でした。

あっ、それはもっと前の話だった。

とはいえ、そんな「心の新鮮さ」を失いつつある<おばちゃん>たるわたしにも、忘れられないひとびとの顔はあるわけで、ときどき心のアルバムをめくってはニヤニヤしています。

大学を卒業しようと思っていたころ、景気の悪さと、要領・器量の欠如がたたり、就職を見つけられず、大学近くのファーストフード店で涙を流したり、そこで合流した男友達に「おれ、彼女の下着のにおいをかぐのが好きなんだ」と唐突にカミングアウトされたりしていました。*「断じて下の下着ではない」だそうです。

生来の目立ちたがり気質から、12歳ぐらいのころから「留学したい!」と思っていました。大学2年生ぐらいのころに相談に回ったこともあるのですが、あまり真剣になれず、ダラダラと日々を浪費して、前段落のナイ内定状態に至ります。もう、就職のために留年も見据えなければいけない。どうしよー!!と悩んでいたころに「あっ、交換留学の奨学金があるじゃん!」とフッと思いつき、定員割れのヨーロッパの某大学に120万をもらって乗り込んだ、のがいまから6年前です。

その国には行ったことも、興味すらなく、自分が滞在する街と首都が隣り合っていると思っていたほどでした。実際にはのちに、片道6時間の距離を知らない人の車に乗せてもらって往復するようになります。

と、言葉もできず、前提知識もない国へ乗り込んで、編入手続の際に「じゃあ、この寮だから」と渡された鍵を持って学生寮へ。百年前の写真にもバッチリ載っている木組みの複雑なつくりをした3階建てで、もとは娼館だったとか。学生寮は、飲み屋街の端に位置していたので、大学よりも居酒屋で言葉を学んだと言えると思います。

 

話はちょっと迂回しましたが、学生寮の隣には、さらにボロいちいさな家。そこに住む(住んでいた)Sのことを、わたしは一番大事な思い出として、よく思い出しています。

 

……ここからは以前Facebookに書いて、非公開にしたものを貼り付けます。。友人名は仮名にしますね。ここまで伏せていた地名はバレバレですが、知人・大学関係各位、おめこぼしください。

 

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 ドイツでいちばんおもしろかったことを聞かれると、「エリート学生のソーシャルクラブに潜入したこと」と答えるようにしているのだが、それは表向きのシツラエでしかなく、ほんとうにおもしろかったことは別にある。
 わたしが暮らした元娼館の学生寮の角部屋には、二つの大きな窓があり、ひとつは観音開きで通りに面しており、向かいの家の豪勢な2階のホールを見下ろせるようになっていた。もうひとつは縦に大きく、しかし隣家の煤けた、めちゃくちゃな配列の瓦を眼下に覗むだけだった。
 あるとき、定時を打つ鐘の音にまじって、ピアノの音がかすかに聞こえることに気が付いた。
「あの豪勢なホールには
「おいしい食事が並ぶだけじゃなくて
「ピアノだってあるのだな――」
 子どもの姿が見えることもあった。貧しい留学生活とは反対の理想郷である。
 しかし、あるとき、ふとしたきっかけで意外な事実が判明した。
 話に行き着くまでに、とんでもなく時間をさかのぼらねばならないが、しばし辛抱を。
 わたしの「クナイペ・ドイチュ(居酒屋独語)」を養った毎晩のアクティビティと変わらず、汚い革ジャンでルームメイトとふらふら家路についたある日。学生寮の玄関近くの扉が大きく開け放たれており、中からは大音量のクラシック音楽が流れていた。
 前述のとおり元娼館の学生寮は、複雑な構造で、通りに面した玄関の上に縦に1棟、そして中庭を囲むように2棟が向かい合っており、わたしが住んでいたのはその2棟のあいだを超えた、一番奥の棟だった。棟はそれぞれが独立していたので(木枠を無理やり乗り越えれば繋がっていたと言い張ることもできるだろうけれど)、別の棟に住むひとのことは何も知らなかったのである。
 当時のわたしはいま以上に頭がおかしかったので、開け放たれていた窓から「こんにちはー。何してるのー?」と、ためらわずに顔を突っ込んだ。これが大事な友人、イスラエル人(ユダヤ教信者)の「A」との出会いである。彼の部屋には古い楽譜や胸像がひしめき、備え付けではないビロードの赤いカーテンがかけられていた。

 

 Aがその夜一緒にいたイスラエル人の友人Bは、医学部志望でドイツ語試験を何度も受け直していたが、それからしばらくして、大麻でハイになっているところを自転車で河川敷から転落し、全身を、特に手指を複雑骨折し、二度とメスを握れない身体となって故郷に帰国した。
 Aも穏やかな目をした長身の優しい青年であったものの、頭がイカれていたのは確かである。同じ大学の学生寮に住んでいたものの、とっくに大学からは除籍になっていた。いまは隣の市の音楽大学に通っているのだという。
 その夜からわたしたちはとんでもなく仲良くなって毎夜飲みに、そして目的もなく深夜に古都を徘徊するようになったが(他人の家の地下室に忍び込んだり)、それから数か月(!)ついに彼は学生寮を追い出される羽目になった。
 引っ越しのデッドラインまで数日。スーパーから「持ってきた」カートに大量の楽譜を入れて、石畳をゴロゴロと引っ張っていく。ガラガラガラガラ。三階の部屋まで響き渡る音は、しかし意外に近くで止まった。聞くところによれば、わが部屋の縦長の窓から見下ろす、あの小さな汚い家にひと部屋を借りることにしたそうである。
 そもそもわたしたちの学生寮にはピアノなんてものはなく、Aはかの「●ックス・ウェーバー・ハウス」の鍵を借り、語学学校の授業がない深夜にピアノの練習をしていた。(よく幽霊を見る、いつか連れて行く、と言っていたが行けずじまいである。)
 「こんど部屋を借りる家にはピアノがあるんだ」
 はい、そうです。お待たせしました! ときおり部屋に流れてくるピアノの旋律は、あの通りの向かいの豪華なホールからではなく、すぐ隣の、小汚い家(失敬…)から流れてきていたのでした。
 その家主こそS、なのですが、今日は眠いのでここまで…(3月7日)

 

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Sは60歳をとうに超しているような見た目で、スティーブ・クーガンに似ていた。猫背の上にぼさぼさの白い髪を垂らし、いつも白い下着のシャツとブリーフのようなものでウロウロしていた。Sの家は、かわいらしい三角屋根のちいさな階段を数段上がると、二階建ての家になっており、そこから、なぜか照明が青いトイレ小屋がある中庭を距てたところに、小さな物置部屋があって、Aはその高さがあまりない部屋にくらしていた。手前の家の一階にはピアノが置いてあって、その奥の壁には描きかけの青空の絵があった。その端々は、黒く煤けている。Aからの伝聞では、「Sは、火事になったトラウマで、精神的な障がいを負っている」そうであったが、実のところはピアノ教師であったらしい。彼の教え子をわたしは一人も知らない。

火事の影響でSの家には暖房やお湯の類が一切なく、台所の水道から中庭へ伸ばしたホースを使い、その冷たい水をSは毎朝5時頃から「シャワー」として使っていた。Aはその形式を真似しようと試みたようだったけれども、すぐに耐えられなくなり、前出のように、以前侵入したことのある他人の家(Aの元職場)の地下室にあるシャワー室へ、深夜になると忍び込むようになった、とさ◎

Sはもちまえの神経質さでドイツ語の発音を直してくれたし、そもそもずっと気になっていた音の主であるのだから、自然にわたしもAの用事を抜きにSの家を訪ねるようになった。時にSはお茶をすすめてくれたけれど、それ以上に「ナイジェリア人の友達がくれる」という純粋大麻をすすめてくれることが多くなった。わたしは親がオカタイ職業なので、いくら異国の地と言えども、断っていました。(ほんとだよ!)

Sの家の二階はとても狭く、木の床はベッドと楽譜と本でほとんどが占められていました。いちど、Sが具合を崩したときか何かに階段を上がったけれど、暗い部屋の中で美術館のインスタレーションのように置かれたテレビが、繰り返し同じポルノチャンネルの宣伝を流していて、その混沌さに感動さえ覚えたものです。そんな性の露出と隣り合わせになったところで、よくわからないオッサンとふたりでいても、わたしたちにはもちろん何かそういう感情をかよわせたことは一切なく、あくまで単体の人間として、会ったり、文学の話をしたり、最近見た映画の話などをして、Sはたまにピアノを弾いてくれたりしました。2階の部屋には天窓があり、そこがわれわれの暮らす学生寮の2階部分ほどにあり、私の暮らす3階の窓から身を乗り出すと、明かりが見えることもありました。

こんな穏やかな交流を続けていたSも、大麻でワケがわからなくなると、ほんとうにだめでした。

ある夜、変な叫び声が聞こえ、通り沿いの窓から身を乗り出すと、AがSの家の前で何かを叫んでいます。すぐに下りて話を聞くと「ラリった」SがAを締め出してしまったが、「コンロでお湯をわかしっぱなしなんだ!」だそうで、さらなる火事の危険が迫っていました。

困ったAと話しているうちに、わたしの窓から様子が見られるのでは、という話になりました。ルームメイトを巻き込んでみんなで下を覗き見ていると、Aは「天窓が開いているから、ここから飛び降りるから!」。

いくら緯度が高いと言えど、深夜なので真っ暗です。Aが窓枠にまたがって、3階の床の高さにあるでっぱりに足をかけてからは、ルームメイトが懐中電灯を向け、2メートルほど下のS家の屋根を照らしていました。

がしゃっ。

瓦の崩れる音がして、無事に着地したAは、台所へ向かい、水のなくなったヤカンの火を止めることができました。

こんなことが重なって、AとSはよく喧嘩をしていたけれど、何年かしてAの在留資格が問題になったとき、自分の養子にできないか真剣に検討してくれたのもSで、結局ドイツ人の女の子と結婚したAのお祝いで「ベストマン」の位置にいたのも、その日はちゃんと髪を整えたSでもありました。

たまたまわたしがヨーロッパを旅行していたときに開かれたAの結婚式自体は、宗教的な理由から市役所で行われ、職員が愛についての詩を朗読してくれる簡素なものであったけれど、とても気持ちがよいもので、何よりも驚いたのは、そのあとの宴が、わたしたちがよく侵入したあの、他家の地下室で開かれたことでありました。そのときはちゃんと使用許可をとったそうです。

 

Sは、わたしの帰国後に一層麻薬への依存を深め、いまや、生きているのかどうなのかもわかりません。でも、Sとの奇妙な関係や、あの「突き抜けた」空間やエピソードの数々は、均一化されるわたしの世界の中で、いまでも大事な位置を占めています。

 

留学を終え、最後にSの家に寄ったとき、わたしは床に腰掛けて、Sはショパンか何かをゆっくり弾いてくれたけれども、引っ越しの準備でとても疲れていて、わたしは気が付くと眠ってしまっていた。

目ざめにわたしが発した一言を、Sはずっと覚えていてくれたけれども、わたしはすっかり忘れてしまった。わたしは何と発したんだろうか。Sは「ピアノを弾けないピアニスト、ピアノを教えないピアノ教師なんて存在しているんだろうか」と言ったのだけれど……。